私たちが小学生の頃   投 稿              

  「 小 学 生 時 代 雑 感 」 4期生 : 福原 明 (八王子市)
  生まれる前年、昭和7年、日中戦争(当時は支那事変)が始まり、2年生の時、太平洋戦争(大東亜戦争)勃発、6年生の時敗戦(終戦)と戦時体制に終始した時代だが、今となっては懐かしいこと、恥ずかしいこと、痛切なこと、渾然となって思い出される。

第二桜小学校(当時は第二櫻小學校と書かかねばならない)の1年生3学期の時、新設の経堂小に編入。移動の途中で担任の田河先生(極々優しい女先生で小学時代を通じて一番憧れた)に先生は行かないの?と聞いたら、「先生はお留守番なの。」との言い方をされたのを覚えている。強い印象を残すまいの心遣いを後年になって感じた。  

我が学年は3クラス編成、なぜか男組、女組、混合組に分かれ、小生は混合組。時代を反映して、この組の男子は女々しいとする言説を時に聞いた。いまなら「僻むな」で済ますところ。2年の時か、女子のスカートをめくっては逃げることが一部で流行り、不肖小生もそれに染まった。が、同級生女子は神聖にして犯すべからずで、対象は上級生だったと思う。当然ながら訴えられて、級友の前で公然と吉野先生に叱られた。恥ずかしい思いはしたが、登校が嫌になった覚えがない。叱り方が上手だった?!

敗戦の前年から始まった「学童疎開」は、恐らく全員に一番強い印象を残した事件。縁故を頼る型と一校が集団で同じ土地に行く型とあり、小生は後者の最後に参加、昭和20年5月25日から新潟県魚沼郡塩沢町の泉盛寺にお世話になった。別送された荷物は空襲のため新宿駅で焼けてしまった。本人は幼年期のアルバムを惜しんだが、全体としては夜具が不足で困り、塩沢の人達が供出してくれたものに頼ったのを知った。食料をはじめ物資欠乏に直面したが、子供の好奇心を刺激する環境でもあった。蛍はいたしアケビもぎは始めてしたし、大鋸で丸太から板材を手引きする人、お寺のお布施にお米が使われること、風呂桶や味噌樽が鉋(かんな)など簡単な道具で見事に手作りされること。etc、etc。

出発の前日だったと思うが、空襲に飛来した米軍機が近くの高射砲で撃墜され、機体の一部と乗員の遺体が経堂小の近くに野晒しで陳列された。戦意高揚の意図があったのだろう。意外に子供っぽい顔立ちに驚いた。来ていた老人の一人が何かつぶやいてそれを足蹴にし、頭がただの物体然と為すがままに動いた。更にぎょっとしたのは、ズボンの前からその少年の性器が引っ張り出されていたことだった。恥をかかせるためであることは子供にも良く分かったが、見てしまったことに言及できない雰囲気があった。

3月10日(陸軍記念日を狙ってされた下町大空襲、世田谷からも夜空が焼けるように見えた)と5月25日は記憶に焦げ付いている日付だ。今回はこれまで。


 
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