私たちが小学生の頃   投 稿              

  「 私 た ち の 小 学 生 時 代 」  8期生 : 柱 信行 (世田谷区)
  太平洋戦争の終わりごろ、昭和19年から戦後の昭和25年にかけて、私たちの小学生時代、日本は食糧難の最中にありました。

それでも戦後学校給食が始まって、やっと昼食だけは皆一緒に食べられるようになりました。メニューはコッペパンにミルク、そのミルクが脱脂粉乳でまずいのなんのって、毎日やっとの思いで無理やり飲み込んでいました。 いつもひもじい子供たちでしたが、昼休みや放課後はみんな元気。教室では「馬とび」や「押しくらまんじゅう」で、ストーブも無い寒々とした冬の教室も何とか耐えました。校庭や路地では本塁と一、二塁だけの三角ベースの野球で、グローブやボールは母親お手製の布作りでした。

当時は学校の周りはまだ自然が一杯で、目の前に田んぼや畑、林があって、夏休ともなると子供たちの天国でした。現在の森繁久弥さんのお宅は、当時まだ林で子供たちの格好のせみとり0場でした。又今は蓋をされて緑道になってしまった烏山川や、北沢川もまだ清流で、昼間はエビガ二やハヤ釣り、夕方はギンヤンマ釣りと、暗くなるまで遊んでいたものでした。 食料、衣料をはじめ、物が何も手に入らなかった時代でしたが、子供たちは自分自身で遊びを見つけ、又自然からの恵みを一身に受けて、毎日を楽しんでいたのでした。


 
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