私たちが小学生の頃   投 稿              

  「 防 空 壕 」 2期生 : 服部 幸造 (横浜市)
昭和20(1945年)に入るとB-29の空襲がひんぱんにあり、家族は昼でも夜でも、警報のサイレンが鳴るたびに防空壕に避難するようになった。

ある夜いつもより激しい空襲があって、経堂の南の空にザーザーと音を立ててたくさんの焼夷弾が降って来た。幸い南風が強く、焼夷弾は全て裏の田んぼにそれたので助かった。

あとで消防団の人の話によると、もし落ちていたら、家庭の防空壕に入っている人たちは、全部死んだに違いないとのことでした。

年月日 被害場所 被害・罹災世帯数 死亡・罹災者数
昭和20年 2月 上北沢・烏山他 24  19 
昭和20年 3月 玉川町他 185    332   
昭和20年 4月 若林町他 483    857   
昭和20年 5月 松原町他 23,261    44,995   
(世田谷区内の数  世田谷平和資料室の資料による)


「 防 空 壕 と 灯 火 管 制 」  2期生 金井 千枝子 (世田谷区)
「千枝子さん起きなさい、空襲警報ですよ」と母の声がした。眠いし、寒いし防空壕は辛い。 このぬくぬくの暖かい布団から出たくない。「千枝子何してるの」 走ってくる足音と同時にぱっと布団をはがされた。「分かった」 と 返事だけしてまだ丸まっていた。

姉が庭で 「燃えてるの三軒茶屋の方ね」 と話している。母が 「早く防空壕に入りなさい」 とせかしている。東京が毎日空襲を受けていたある日のことである。戦争が激化したので、後輩の皆さんの苦労が大きいと思います。
 
灯火管制も嫌だった。夜になると部屋はいつも薄暗く、廊下の隅には怪物がいるような気がした。

ある夜、どんどんと扉を叩く人がいる。母が扉をあけると、大声で「電気の明かりが外に漏れてますよ、もっと気をつけてください」といきなり警察の人に怒られた。母は暗い電気をもっと暗くした。
 
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