私たちが小学生の頃   投 稿              

  「 昭和二十三年頃の遊び 」 7期生 : 鈴木 幸夫 (世田谷区)
  千歳船橋から経堂小に通っている生徒は少なかった。
旧森繁久弥邸(当時は弁天山という小高い丘)の辺りから恵泉女学園までの通学路の両側は田んぼと畑が続き、収穫後の田んぼは春にはスミレや蓮華のじゅうたんと化し、空にはとんびがゆうゆうと徘徊するのどかな田園風景が広がっていた。
 
学校での遊びは馬とび、縄跳び、相撲、エス(地面に大きく S字を書きスペル内の陣地の争奪戦)など、剣玉の技も披露しあった。野球のグローブを持っている子はわずかであった。
 
童謡歌手の川田正子と 「音羽ゆりかご会」 の絶頂期であり、 「みかんの花咲く頃」.「月の砂漠」 などをラジオでよく耳にし、ハーモニカで吹いた。学校でも家庭でも子供は流行歌はご法度 (お富さんが流行っていた)、 口ずさむと親に注意された。

放課後の校庭は常に開放されており、時折仲の良い女の子を自転車にのせ、爽快な気分になった。


 
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